F1モナコグランプリ——
それは、世界中のドライバーにとって夢の舞台であり、モータースポーツ界で最も格式高く、美しく、そして過酷なレースの一つだ。狭く曲がりくねった市街地コース、歴史あるトンネル、見下ろすように並ぶ高級ホテルやヨットの数々。モナコには、栄光と伝説が詰まっている。
その街で生まれ育った男、シャルル・ルクレールにとって、モナコGPの勝利は単なるGPの勝利ではない。
それは、子どもの頃から抱き続けてきた夢の結晶であり、彼を支えてきた人々。そして既にこの世を去った大切な人たちへの約束だった。
何度も挑み、何度も打ち砕かれた。
自らのミス、マシンのトラブル、運のなさ——勝てそうで勝てなかったその舞台は、彼にとって悪夢のような「鬼門」でもあった。
だが2024年5月、6度目の挑戦でついにその運命を塗り替える。
モナコで、モナコ出身の男が勝った。
それはF1史に刻まれる特別な勝利を掴んだ男の裏には、彼の人生をかけたドラマがあった——
託された未来──ジュール・ビアンキとの深い絆
シャルル・ルクレールのレーサーとしての原点を語るとき、ジュール・ビアンキという存在を避けて通ることはできない。
ビアンキ家は、コートダジュールのレーシング界では知られた存在だった。彼の祖父はかつてF3チームを運営し、父親はカートドライバー。モータースポーツは血筋とともに流れていた。
ルクレール家は、そんなビアンキ家とモナコ近郊で親しくしており、シャルルにとってジュールは単なる「憧れのF1ドライバー」ではなく、指針のような存在となっていた。
そして、それは非常に自然なことだった。
シャルルがレーシングカートを始めたのは、わずか3歳半のころ。場所は、ビアンキ家が所有していたカート場「ブリニョール・カートサーキット」——彼にとってモータースポーツは、遊び場であり、育ち場でもあった。
カート時代から“天才”と評されたジュール・ビアンキは、フェラーリのドライバー育成プログラムに選ばれ、2013年にはF1デビューを果たす。マルシャという弱小チームでありながら、チーム初のポイント獲得をもたらすなど、持ち前の速さと安定感で頭角を現し、「将来のフェラーリドライバー」として確かな期待を背負っていた。
そんなビアンキの存在は、少年だったルクレールにとって大きな刺激であり、夢を具体的な“目標”へと変えてくれるものだった。
しかし、運命は残酷だった。
2014年10月、F1日本GP。雨と悪天候が重なった難しいレースで、ビアンキは作業車に衝突し、重度の脳損傷を負う。意識が戻ることはなく、翌2015年7月、25歳の若さでこの世を去る。
その日、シャルル・ルクレールは18歳。深い悲しみと向き合いながらも、彼は静かに誓った。
彼が果たせなかった夢を、僕が叶えたいと思っている。」
(出典:Autosport)
その夢はフェラーリでF1を走ること。
それはビアンキの夢であり、今やルクレール自身が背負うことになった使命だった。
嘘じゃなかった──父に誓った“フェラーリの赤”
シャルル・ルクレールは、F1という世界に飛び込む以前から、常に「夢」を背負って生きてきた。その夢を支えていたのが、誰よりも強く息子の才能を信じ、情熱を注ぎ続けた父、エルヴェ・ルクレールだった。
エルヴェ自身も元レーシングドライバーであり、息子の可能性に人生を賭けていた。カート時代からF3まで、シャルルのキャリアを傍で支え続けてきた存在であり、彼がここまで来られたのは、父の存在なくして語れない。
しかし2017年、シャルルがF2で戦っていたシーズン中、エルヴェは病に倒れる。容体は悪く、余命も限られていた。
そして、その最期のとき。
シャルルは「フェラーリと契約した」と父に嘘をついた。
本当はまだ何も決まっていなかった。だが、父の目に、息子が夢を叶えた姿を見せたかった。
それが、これまで支え続けてくれた父にできる、最後のプレゼントだった。
そしてそのわずか数日後、エルヴェ・ルクレールは息を引き取る。
だが、その「嘘」はやがて現実となる。
2018年、ザウバーからF1デビューを果たすと、その1年後にはフェラーリへの電撃昇格が決定。
2019年、ルクレールは正式にフェラーリのレースドライバーとして、F1のグリッドに立った。
亡き父へ向けてついた、優しくて苦しい嘘。
しかしそれは、努力と才能で“真実”に変えられた誓いでもあった。
友情が導いた初栄冠──スパで刻んだ亡き友への誓い
2019年9月1日、ベルギーGP決勝。
シャルル・ルクレールはF1キャリア初のポールポジションからスタートし、そのまま優勝チェッカーを受ける。
フェラーリ移籍1年目での勝利、そして21歳と320日での達成は、モナコ出身ドライバー史上初のF1ウィナーという歴史的な快挙でもあった。
しかし、そのレースは決して「喜びだけ」では語れないものだった。
前日――8月31日、F2のレース中に親友のアントワーヌ・ユベールが大事故に巻き込まれ、命を落とした。
ユベールとはフェラーリ・アカデミー時代から苦楽を共にしてきた仲間であり、ビアンキを失った後も、心の支えとなっていた存在だった。
ルクレールはこのレースウィーク、心を深く抉られるような喪失の中でマシンに乗り込んだ。
それでも、いや、それだからこそ、彼は勝たなければならなかった。
「彼のために、僕は勝つ」
その覚悟が、ハミルトンなどの強豪たちを抑える集中力へと昇華された。
レース後、表彰台の上で彼の目に浮かんでいたのは、笑顔ではなく、深く沈んだ悲しみと敬意だった。
そして、インタビューで彼は静かにこう言った。
「この勝利は、アントワーヌに捧げたい。」
(チーム無線より)
人生初のF1ウィン。
その舞台で彼が真っ先に思い出したのは、失った大切な仲間だった。
レースの神に愛される者だけが立てる場所で、ルクレールは涙ではなく、勝利で弔った。
それは、彼がこれまで背負ってきた喪失と、これから背負っていく覚悟の象徴でもあった。
ここまで、シャルル・ルクレールが幼少期からジュール・ビアンキとの深い絆、父への想い、そして亡き友人に捧げた初勝利までの軌跡を振り返った。
若きドライバーの人生には、喜びと同時に多くの試練と覚悟が刻まれていることが見えてきただろう。
次章では、フェラーリの母国イタリアGPでの栄光に焦点を当て、ルクレールがさらなる成長と覚醒を遂げた瞬間を詳しく掘り下げていきたい。
この後も、その歩みを見守っていただきたい。
