F1は世界最高峰のモータースポーツ。そこに「自国初のドライバー」として挑戦することは、国を背負った大きな挑戦でもある。
この連載「F1フロンティア」では、各国で最初にF1の扉を開いたドライバーたちに光を当てていきます。
その第4回は、ポーランドから現れた天才ロバート・クビサ。F1での優勝、そしてラリー事故によるキャリア断絶と奇跡の復活――ドラマに満ちた彼の軌跡を振り返る。
│ドライバー紹介
フルネーム:ロバート・クビサ(Robert Józef Kubica
生年月日:1984年12月7日
出身地:ポーランド・クラクフ
幼少期からカートに親しみ、10歳の頃にはイタリアに渡ってヨーロッパで本格的にレースを学んだ。
彼の才能は早くから評価され、F1ドライバーになるための登竜門であるフォーミュラ・ルノーやF3を経て、2006年にBMWザウバーのサードドライバー(補欠ドライバー)に抜擢。その後ハンガリーGPでデビューを果たし、ポーランド初のF1ドライバーが誕生した。
│ポーランドのモータースポーツ事情
ポーランドはラリー文化が強く、国際的なF1のようなサーキットレースの土壌は乏しかった。
そんな中でクビサがF1に到達したことは「奇跡」とも言われ、国内メディアは「ポーランド人が世界のトップに挑む日が来た」と熱狂した。彼の活躍をきっかけに、ポーランド国内のモータースポーツ人気は一気に高まった。
│レースで見せた初優勝そして事故
2006年イタリアGPでデビュー3戦目にして3位表彰台を獲得。2008年にはカナダGPでポーランド人初、そしてBMWザウバーにとっても初となる優勝を達成する。その年は一時的にランキング首位に立ち、最終的に年間4位と堂々たる成績を残した。
その後ルノーへ移籍し、さらなる活躍が期待された2011年。クビサは趣味として続けていたラリーレースに参戦していたが、イタリアでのラリー中にクラッシュし右腕を複雑骨折。神経や筋肉に大きな損傷を負い、F1どころかレーサー生命すら危ぶまれる深刻な事態となった。ファンも専門家も「彼のキャリアは終わった」と考えたほどだった。
│諦めたくなかった。そして掴んだ夢のチャンス
しかし、クビサは諦めなかった。長期間に及ぶリハビリを続けながら、2012年以降はラリーやスポーツカーなど様々なカテゴリーに参戦し、レース勘を取り戻していった。
そして2017年、奇跡が起きる。古巣ルノーからテストのオファーを受け、6年ぶりにF1マシンをドライブ。116周を走破し、当時のリザーブドライバーを上回るタイムを記録したのだ。この走りにより、クビサ復帰の可能性が一気に現実味を帯びる。
2019年、ついにウィリアムズでF1復帰を果たした。ポーランドの大手企業PKNオーレンの支援も後押しとなったが、何よりも彼自身の努力と執念が掴み取ったシートだった。
しかし当時のウィリアムズは最下位争いに沈むチーム。苦しい戦いが続く中、第11戦ドイツGPでは雨による波乱のレースで見事10位フィニッシュ。これはクビサにとって復帰後初ポイントであり、チームにとってもシーズン唯一の得点だった。しかし、その後は結果を出せず離脱を表明。短い復帰シーズンながら、その精神力と粘り強さはF1ファンに深い印象を残した。
│その後どうなったのか
2019年末でウィリアムズを離れた後も、クビサはモータースポーツから離れなかった。アルファロメオのリザーブドライバーとしてF1に関わり続けながら、スポーツカーや耐久レースにも挑戦。
2024年にはWEC(世界耐久選手権)最上級クラス「ハイパーカークラス」に参戦し、第6戦オースティンで優勝を果たす。これは「F1とWECの両シリーズで総合優勝を経験した3人目」の快挙だった。
さらに2025年、世界三大レースの一つであるル・マン24時間レースで総合優勝。ポーランド人として初のル・マン制覇という歴史的偉業を成し遂げた。
│挑戦をやめない男
ロバート・クビサのキャリアは、栄光と挫折、そして奇跡の復活で彩られている。事故によるハンデを抱えながらも、再び世界最高峰に戻り、さらに新たな舞台でも頂点を極めた。
彼は事故後に語った言葉がある。
「人生は時に残酷だが、それでも進み続けなければならない。」
彼の物語は、F1ファンだけでなく、スポーツに挑むすべての人に勇気を与えている。
「ポーランドの天才」は、F1フロンティアの象徴的存在として、これからもモータースポーツ史に語り継がれるだろう。
