F1は世界最高峰のモータースポーツ。
そこに「自国初のドライバー」として挑戦することは、国を背負った大きな挑戦でもある。
この連載「F1フロンティア」では、各国で最初にF1の扉を開いたドライバーたちに光を当てていく。
第2回は、1987年にロータス・ホンダからデビューした日本人初のフルタイムF1ドライバー、中嶋悟。
「遅咲きの挑戦者」はどのようにして国の壁を破り、
そして日本にモータースポーツ文化を根付かせていったのか――その歩みを辿る。
│ドライバー紹介
フルネームは Satoru Nakajima(中嶋 悟)。
1953年、愛知県岡崎市に農家の息子として生まれ、
父親のトラックを運転するのが幼少期の原体験で、クルマとの距離は近かった。
1973年に鈴鹿のフォーミュラレースへ参戦し、すぐに頭角を現す。
その後、国内フォーミュラを主戦場に活躍し、
1981〜1986年の全日本F2選手権では 5度のチャンピオン を獲得。
国内最強ドライバーとしてその名を轟かせた。
そして1987年、34歳にしてロータス・ホンダからフルシーズンF1参戦を果たす。
「日本人初のF1正ドライバー」という歴史的瞬間だった。
│日本のモータースポーツ事情
当時の日本はモータースポーツ後進国。
鈴鹿サーキットこそあったが、世界トップカテゴリーに参戦するドライバーはいなかった。
一方で、ホンダがF1復帰(1983年)し、ターボ時代を席巻していたことが大きな追い風となり、
ホンダは国内スターを世界に送り込む必要を感じており、
そこで国内最強と評された中嶋が白羽の矢を立てられた。
日本では後に「セナ vs プロスト」の時代に“もう一人の日本人ドライバー”が存在することで、
F1人気が爆発的に広がることになった。
│F1での戦績(ハイライト)
1987年(ロータス・ホンダ)
デビュー2戦目のサンマリノGPで6位入賞し、初ポイントを獲得。ベルギーGPでは5位入賞。
年間成績は12位(7ポイント)。1988年(ロータス・ホンダ)
チームは低迷するが、鈴鹿GPではセナとほぼ同等のタイムで予選を走り、観客を熱狂させた。
また、モナコGPなど雨のレースでは驚異的な速さを見せ、「雨の中嶋」と呼ばれる所以となった。
実際、雨天時の予選や決勝で格上のマシンを抑える走りは多くの専門家をうならせた。1989年(ロータス・ジャッド)
ホンダ撤退後は苦戦。3ポイントを獲得するに留まる。1990–91年(ティレル)
中堅チームで粘り強い走りを見せたが、表彰台は叶わず。1991年限りで現役を引退。
通算成績:74戦/16ポイント/ファステストラップ1回
表彰台はなかったものの、5年間の挑戦を通じて「日本人でも世界の舞台で戦える」ことを証明した。
│その後どうなったのか
1991年の引退後、“中嶋企画”(Nakajima Racingなど)を設立し、
全日本F3やフォーミュラ・ニッポン(現スーパーフォーミュラ)で若手を育成。
自身の息子・中嶋一貴をF1に送り込み、さらに松田次生や関口雄飛ら国内トップドライバーを輩出した。
F1ドライバーの角田裕毅は中嶋悟の助言でステップアップを果たしている。
また、日本のF1文化を広げる役割を果たし、
「挑戦の扉を開いたパイオニア」として評価され続けている。
中嶋悟は、F1で優勝や表彰台を飾ることはできなかった。
しかし、彼が挑戦したからこそ日本人F1ドライバーの道は開け、
のちに鈴木亜久里、小林可夢偉、角田裕毅らがその道を歩むことになった。
「日本人初のフルタイムF1ドライバー」。その肩書きが持つ意味は大きい。
まさに「F1フロンティア」にふさわしい挑戦者、それが中嶋悟である。