F1は世界最高峰のモータースポーツ。そこに「自国初のドライバー」として挑戦することは、国を背負った大きな挑戦でもあります。
この連載「F1フロンティア」では、各国で最初にF1の扉を開いたドライバーたちに光を当てていきます。
その第1回は、インドから初めてF1グランプリに到達したナレイン・カーティケヤン。急拡大するインド経済を背に、スポンサーとともに扉をこじ開け、ジョーダンからデビュー。国のモータースポーツ史に最初の得点を刻んだ男を辿る。
│ドライバー紹介
フルネームは Kumar Ram Narain Karthikeyan(クマール・ラム・ナレイン・カーティケヤン)。
1977年タミル・ナードゥ州コーヤンブットゥール生まれ。父もラリーレースで有名な人物で、幼少期からレースは身近だった。欧州のレース学校で基礎を学び、F1直下のレースであるF3っに参戦して腕を磨いた。2001年には中堅チームのジャガーF1のテスト機会を獲得し、「インドにも才能はいる」ことを示した出来事として現地メディアが大きく報じたのだった。
2005年に中堅チームのジョーダンからF1デビュー。以後、2006–07年は名門ウィリアムズのテスト/リザーブ(マシンの開発や補欠のドライバー)を務め、その後2011年にHRTでまた復帰した。

インドのモータースポーツ事情
インドといえば「クリケット大国」。モータースポーツはほとんど注目されていなかった。
それでも、自動車産業(タタ・モーターズやマヒンドラなど)が成長していた背景もあり、カーティケヤンの活躍と並行してモータースポーツは次第に注目されてきたのだった。
遂には、ニューデリー近郊のブッダ・インターナショナル・サーキットで2011–2013年にインドGPが開かれた。2013年以降は、税制や行政的課題で中断した。
│F1での戦績(ハイライト)

2005年 ジョーダン
デビュー戦は豪州GP。最大のハイライトは米国GP4位。同GPはミシュラン勢の安全問題により6台のみ出走という異常事態だったが、それでもチェッカーを受けてキャリア唯一の5ポイントを獲得している。年間成績は18位。2011年 HRT(前半)→インドGPで一時復帰
シーズン途中、イギリスGPからダニエル・リカルドに交代。ただし同年10月の初開催インドGPではスポンサー支援も受けてHRTのシートに復帰し、初の母国レースを走った。2012年 HRT
フル参戦。弱小チームもあってノーポイントながら、2年目のマシンで完走を重ねたシーズンだった(HRTは年末にF1撤退)。
通算:46戦/5ポイントと記録はあまり残せなかったが、インド人初として初ポイントを獲得し、母国に名誉を作り上げた
│その後どうなったのか

F1から離れたあと、日本のフォーミュラレースやGTレース(自動車レース)にも参戦し、表彰台3回と結果を残した。
その後は実業にも軸足を広げ、中古車再生のDriveXを創業するなど、自身のキャリアで得た知見をビジネスに転用。若手育成にも関わり、次世代への“橋渡し”役を担っている。
ナレイン・カーティケヤンは、F1で優勝やタイトルを手にしたわけではありません。
しかし、彼の挑戦はインドにとって歴史的な出来事だ。
その存在は2、後にF1ドライバーのカラン・チャンドックやFormula E(電気走行のフォーミュラレース)で活躍するチームのマヒンドラなどインドのモータースポーツに大きな影響を与えた。
大きな栄光を手にできなかったとしても、「国の扉を開いた挑戦者」という価値は揺るがない。
まさに「F1フロンティア」にふさわしいドライバー、それがナレイン・カーティケヤンなのだ。