F1は世界最高峰のモータースポーツ。そこに「自国初のドライバー」として挑戦することは、国を背負った大きな挑戦でもある。
この連載「F1フロンティア」では、各国で最初にF1の扉を開いたドライバーたちに光を当てていきます。
その第5回は、アルゼンチンから登場した伝説の男フアン・マヌエル・ファンジオ。1950年代に圧倒的な強さを誇り、後世に「帝王」と呼ばれた彼の軌跡を振り返る。
│ドライバー紹介
フルネーム:フアン・マヌエル・ファンジオ(Juan Manuel Fangio)
生年月日:1911年6月24日
出身地:アルゼンチン・バルカルセ幼少期から自動車整備工として働きながらレースに親しみ、地元で「トルメオ・カレラ」と呼ばれる長距離耐久レースで頭角を現した。
第二次世界大戦後、アルゼンチン政府の支援もあってヨーロッパへ渡り、1950年にアルゼンチン人として初めてF1世界選手権に参戦した。
│アルゼンチンのモータースポーツ事情
アルゼンチンは自動車文化が根強く、特に耐久レースや市街地レースが盛んだった。しかしF1のような国際舞台での挑戦は例がなく、ファンジオのヨーロッパ進出は「アルゼンチン人が世界を変える」と大きな注目を集めた。
その後、彼の活躍は国内のレース人気をさらに押し上げ、後にカルロス・ロイテマンら南米出身ドライバーがF1に挑むきっかけとなった。
│伝説のレース ― 1957年ドイツGP
ファンジオのキャリアで最も語り継がれるのが、1957年のニュルブルクリンクでのドイツGPだ。
この日、彼はタイヤ交換と給油でライバルよりも長いピットストップを強いられ、首位から50秒以上離れてしまう。しかしその後の彼の走りは伝説となった。
驚異的なラップタイムを連発し、当時のコースレコードを次々と更新。残り2周でトップに追いつき、最後には逆転優勝を果たした。
後年ファンジオは「あの時、自分は生涯で最も危険な運転をした」と語っている。このレースは今でも「F1史上最高のドライブ」と称されている。
ファンジオは1951年にアルゼンチン人として初めてF1ワールドチャンピオンを獲得。さらに1954年から1957年まで4連覇を達成し、通算5度の世界王者に輝いた。
彼の通算成績は 51戦24勝(勝率47%)/36回表彰台。この勝率はいまだにF1史上最高レベルの数字であり、「ファンジオ以前と以後でF1は変わった」と称されるほどの存在感を放った。
│その後どうなったのか
1958年に現役を引退したファンジオは、母国アルゼンチンに戻り「ファンジオ財団」を設立。自動車博物館の設立や若手育成など、モータースポーツ文化の普及に尽力した。
また、アルゼンチン国内で自動車ディーラーを経営し、メルセデス・ベンツの代理人としてブランドの普及にも貢献。彼の存在はレース界を超えて「国民的英雄」となり、政府行事や国際イベントでも尊敬を集めた。
晩年は世界中のF1イベントにゲストとして招かれ、後輩ドライバーから「生きる伝説」として敬意を受け続けた。1995年に84歳でこの世を去ったが、今なお「史上最も偉大なドライバーの一人」として語り継がれている。
│南米最強の男は語り継がれる
ファンジオのキャリアは、F1黎明期を切り拓いた「伝説」そのものだった。わずか52戦という少ない出走数で、5度のワールドチャンピオン、24勝、35回の表彰台という驚異的な成績を残し、今なお「史上最高のドライバー」と称される。
その走りは、技術や速さだけでなく、冷静な判断力と緻密な戦略によって支えられていた。そしてF1を去った後も、モータースポーツ文化の発展や後進の育成に力を注ぎ、国民的英雄として尊敬を集め続けた。
ファンジオが築いた栄光と伝説は、70年以上が経った今でも色あせることはない。
彼こそまさに「F1フロンティア」の象徴であり、世界にアルゼンチンの名を刻んだパイオニアである。
