アイルトン・セナはすでに1988年と1990年のワールドチャンピオンに輝き、誰もが認める“最速の男”だった。
それでも、どうしても叶えられない夢があった。
――母国ブラジルでの優勝。
ブラジルのファンは常に熱狂的に彼を応援したが、ホームレースでは毎年トラブルに見舞われてきた。
1986年リオではギアトラブル、1988年はリタイア、1990年も惜しくも届かず。
「いつかインテルラゴスで勝ちたい」──セナのその言葉は、もはや“呪い”のように語られていた。
│勢いに乗って迎えた地元レース
1991年シーズンは、開幕戦のアメリカ・フェニックスGPでセナが完勝し、最高のスタートを切っていた。
そして迎えた第2戦ブラジルGP。
舞台は彼の地元サンパウロのインテルラゴス。
マクラーレン・ホンダMP4/6は新しいV12エンジンを搭載し、盤石の体制で臨んだ。
セナは予選でポールポジションを奪取。
スタートから完璧なレース運びで、地元の観衆を歓喜させる展開だった。
しかし、誰も予想しなかった“過酷な試練”が終盤に待っていた。
│ギアボックス故障──6速だけで走りきる地獄
レースも残り十数周というところで、セナのギアボックスに異変が起こる。
まず3速、次に4速、そして5速が失われた。
残されたのは、6速だけ。
通常なら、そんな状態ではマシンは走れない。
コーナーで減速するたびにエンジン回転が落ち、ストール(エンスト)してしまうからだ。
だがセナは、クラッチとスロットルを完璧に操り、異常なまでの集中力でマシンをコントロール。
腕には激痛が走り、上半身は痙攣。ステアリングを握ることすら困難だった。
それでも彼はアクセルを戻さず、マシンをねじ伏せた。
この間、2位のパトレーゼ(ウィリアムズ)が猛追する。
誰もが「もう無理だ」と思った──それでもセナは走り続けた。
│ゴールと“涙のラジオ”
チェッカーフラッグを受けた瞬間、セナのマシンはふらつきながらホームストレートを駆け抜けた。
無線からは、喜びと苦痛が入り混じった叫び声が響く。
AHHHHHHH!!! AHHHHHHHHH!!!! I can’t believe it!
その声は、歓喜でも安堵でもなく、完全に限界を超えた人間の叫びだった。
ピットクルーが駆け寄っても、セナは力尽き、ハンドルから手を離せない。
表彰台に上がるのも一苦労で、トロフィーを掲げる腕は震え続けていた。
それでも、その表情には涙と微笑みが混ざっていた。母国の観衆も見守っていたあの瞬間、インテルラゴスは完全にアイルトン・セナの国となった。
Senna Team radio (F1.com)
│勝利が残したもの
このレースをきっかけに、セナは“完璧なドライバー”から“魂で走る男”として語られるようになった。
ただ速いだけでなく、限界を超えてマシンと一体化する存在。
そしてこの勝利によって、「ブラジル=セナ」「インテルラゴス=セナ」という象徴的な関係が確立した。
その後の1993年ブラジルGPでも再び勝利を飾り、彼は祖国の英雄としての地位を不動のものにする。
しかし1994年、イモラで悲劇的な事故によりこの世を去った。アイルトン・セナを愛し、モータースポーツのヒーローであったファンは、最初に思い出すレースは間違いなくこの1991年の、涙の勝利だろう。
